臨済宗東福寺塔頭 東光寺 由緒

東福寺塔頭東光寺は応長元年(1311)、東福寺第七世・大智海禅師による開創である。創建時は現在地よりも少し北の地にあることが絵図にて確認され、 一時期には衰退か廃寺となるが、中興開山である古林智教禅師によって寺域が復興した。そして明治元年、堂宇を長慶院(現在は廃寺)に譲興し、 東光寺を曹渓院に合併して現在に至る。門を入り石畳を進むと庫裏、本堂がある。建築年代は明らかでないが、全六室からなる本堂は禅宗の典型的な 方丈建築であり、仏間には本尊文殊菩薩を祀り、開山である大智海禅師像、中興開山である古林智教禅師像を左右に配す。南面・東面を取り囲むように方丈と 対面する庭園は松・楓など多くの木々が配され、コケに覆われた枯山水の様相を呈している。

大智海禅師(無為昭元)

諱は「昭元」、号は「無為」と称する。寛元三年(1245)の生まれ、東福寺開山聖一国師(円爾)に参じ、正安二年(1300)に京都三聖寺に住持される。嘉元三年 (1305)東福寺に住持され、東福寺第七世となられる。また德治二年(1307)四月に鎌倉円覚寺住持され應長元年(1311)二月に円覚寺を退き相州宝満寺に寓す。 同年五月十六日元相州宝福寺にて示寂する。東福寺塔頭東光寺に葬り「大智海禅師」と勅謚された。師の詳しい資料は少ないが、「正安二年三聖寺無為昭元の会下 百七十七人あり」と伝わるように、当代一の高僧として知られる。『元亨釈書』を著し五山文学の第一人者である虎関師錬(1278~1346)、のちに「東福四哲」に数えられた無徳至孝 (1284~1363)、臨済宗永源寺派の開祖として知られる寂室元光(1290~1367)等多くの僧が参じており、東光門派東光門派の祖としても知られる。また、無為昭元は始め謚号が なく正中三年(1326)三月「智海」の二字を賜る事となったが、無徳至孝はこの二字の前に更に大の字を加えることを主張したという記録がある。後醍醐天皇は三字の 謚号に難色を示したが、中国における「大法眼禅師」の謚号の例を根拠として、嘉歴四年(1329)無為昭元に大智海禅師の謚号を賜ったのである。

本尊 文殊菩薩半跏像

「三人よれば文殊の知恵」という言葉があるように、文殊菩薩は「智(曇りない理性によって培われた完全な悟り)」を司る菩薩として親しまれ多くの信仰を集める。 本像は、像高22.8cmの木造寄木造り。玉眼嵌入の技法やその像容から制作は室町時代後半、院派系仏師の手によると考えられる。いかにも京都の院派仏師の作品らしい おだやかな表情をみせている。

開山像無為昭元像

東光寺開山、無為昭元(大智海禅師)の頂相彫刻が仏間の須弥壇に祀られてる。針葉樹材を用いた像高83.2cmの寄木造り、玉眼嵌入の尊像である。 坐禅や作務が尊ばれる禅宗においては、仏像よりも師僧の人格がそのまま法として重んじられたため、その肖像を彫刻することが盛んに行われた。本像も、東光門派の開祖 である師の人格を量感ある面相であらわしている。一般的な頂相彫刻と同じ法衣の上に袈裟をかけ、曲彔(椅子)に座り、裾・裳裾を前に長く垂れる。右手には払子又は 竹箆を執っていたと推定されるが現存しない。尚、補修がみられる東部と体部は別の時期の可能性があり、写実的な衣紋に截金彩色残る体部は多少古く室町時代と考えられる。

開山像無為昭元像

古林智教坐像

中興開山の頂相である。像高は31.8cmで木造寄木造りで、玉眼嵌入、江戸時代の制作と伝える。

古林智教坐像

直山和尚坐像

須弥壇の左に安置される直山和尚像は像高72.7cm、桧材の寄木造りで玉眼嵌入の尊像である。現在の東光寺の寺域にあり廃絶した長慶寺の開山像と伝えられる。 制作は室町頃と推定される。

直山和尚坐像

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